[ODFD#0001] - 障がい者の自由

目的

障がい者が幸せに生きるために必要な考え方、あり方を提示する。

対象読者

中程度から軽度のすべての障害当事者

著者/障害

なおぴょん/統合失調症

内容

日本の伝統的な組織理論

日本には御恩と奉公という組織理論がある。ルーツは鎌倉時代の武士団に見られ、今に至るまで御恩と奉公は残っている。800年の歴史を誇る。

昭和時代の会社組織

昭和時代までの会社組織もまさしく御恩と奉公であった。終身雇用制度が昭和時代の会社にはあり、これはもともとは社員を守るために用意されたものである。社員もまた、会社のためにプライベートや自分を後回しにして働いた。

障害者福祉事業所にみられる御恩と奉公の関係

筆者が通っていた障害者事業所(就労継続支援A型)もまた、支援者が障害当事者の生活を守る代わりに、障害当事者が事業所を最優先して働くことを求めるルールだった。まさしく御恩と奉公である。

なぜ「御恩と奉公」は長く日本社会で支持されたのか?

弱者を生活を守り、強者の名誉を守るのにとても合理的なシステムだからではないだろうか?すなわち、弱者は安心して生活ができることを保証され、強者もまた名誉として称賛されるわけで、弱者も強者も喜ぶことができるWIN-WINの関係であると言える。この一見不満がでようもないシステムは日本人の伝統的価値観として尊ばれ、守られてきた。そして今も守られ続けている。

「御恩と奉公」の欠陥

一見これといった欠陥がない「御恩と奉公」のシステムだが、人間が作ったシステムである以上は欠陥がある。主君も人間。完全ではない。つまり理解力や許容力には限界がある。そうである以上、臣下も主君に自分自身をすべて委ねるようなことはできない。言い換えれば御恩と奉公のシステムでも見捨てられる人間が一定数発生する。

障害者と支援者の間に「御恩と奉公」の関係は通用しない。

しかし障害者に「御恩と奉公」の関係を当てはめるのは無理がある。主君である支援者は基本的に健常者である。つまり障害者が見ている世界を基本的に理解できない。(部分的に理解できる支援者はいる)つまり、主君たる支援者は障害者を理解・受容することが困難である。対する臣下たる障害者も主君たる支援者の理解が得られず、なかなか受け入れてもらえない。つまり心の満足を得ることが難しくなる。その結果として我慢を強いられ、心が次第に壊れていく。心が壊れれば生活も壊れる。つまりいくら経済的に生活を保証しても、生活が壊れていくのだから、生活を保証する効果が得られない。

主体性と能動性を奪う

「御恩と奉公」の関係性は生産的ではない。なぜならば臣下は能動的に原理的にならないからだ。臣下の主君のための言動はすべて主君の御恩が前提だからである。言い換えれば主君の御恩がなければ臣下はなにも行動を起こすことはないのである。

新しい考え方~障害者の自由~

支援者が主君、障害当事者が臣下という「御恩と奉公」が通用しない以上、別のモデルを考える必要がある。それが下記する障害者の自由という関係性である。支援者はあくまでも障害当事者の思考・感情・決断を否定しない。しかし障害当事者も自らの思考・感情・決断には責任を持つ。支援者が主君で障害当事者が臣下といった上下関係を排除し、支援者も障害当事者も同じ人間という対等な関係を作る必要がある。

心の拠り所

支援者が主君、障害当事者が臣下といった関係が廃される以上、障害当事者は支援者を自らの拠り所にはできない。支援者はいうまでもなく、障害当事者もまた、自分自身の内に自分の拠り所を持つ必要がある。考え方は欧米諸国の個人主義に近い。