[ODFD#0005]成果があるのに自信がもてない理由
目的
主に精神疾患の当事者で、成果は出しているけど、自信がもてない理由について考察する。
対象読者
すべての精神疾患当事者
著者/障害
なおぴょん/統合失調症
内容
成果は出ているのに…
精神疾患、いや普通の人間であっても、社会に出て、一定の成果を出している(それは優秀と呼べるレベルに到達しているケースすらある)そうであっても、なぜか自分自身に自信がもてない人がいる。成果の根拠もちゃんとあるにもかかわらずだ。これは一体なんなのだろうか?
根拠のない自信
そもそも成果が出ているから自信が持てるというのは、条件付きの評価でしかない。成果がでなくなった時点でその人は自信を失うだろう。常に成果との戦いになるし、それは自分の生存を賭けているとも言える。
成果があるにもかかわらず、自信が持てない人に必要なのは「根拠のない自信」だ。
かつてAKB48のプロデューサーとして知られている秋元康氏が、自信がプロデュースするアイドルにとって重要な条件として述べたのがまさしく「根拠のない自信」だ。
では「根拠のない自信」というのは一体なんであろうか?考えてみよう。
真の自信とは何か?
「根拠のない自信」の定義を明確にかけば
- 自分自身に拠り所があり、それは自分を無条件に受け入れてくれる
というものだ。自分自身の拠り所を絶対的に信頼し、委ねることができるというのがそれが本来の自信である。無条件に受け入れてくれる存在というのが実は特段存在根拠がない。存在すること自体に意味がある。だからそれを根拠のない自信というのだ。
根拠のある自己認識
よく「自分はだめな人間だ」とか「自分には価値がない」という人がいる。しかしそれは本当に妥当な評価なのかを検討してみる必要がある。実績や成果があるのにそのように言う人は根拠のある自己認識ができていないとも言えるし、そういう人はどうしても自己肯定感が下がってしまうのではないだろうか?
逆も言える。「自分はすごい人間だ」と言いながら、大した成果が出ていないのであれば、それもまた、根拠のある自己認識ができていないとも言える。こういう場合は自己肯定感が低いというよりは、健全な自己評価ができていないと糾弾される可能性も高いと思われる。
少なくとも自信に根拠はいらないが、自己認識には明快な根拠が必要だ。それが健全な心の持ちようだと私は思う。
無条件の愛
聖書には無条件の愛を象徴する言葉がある。
- あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。(イザヤ4:4)
少なくともクリスチャン的には、神様は自分自身がどんなに悲惨で惨めな存在であったとしても、変わらず、自分自身を丸ごと受け入れてくれると考えるし、そういう実体験・気付きを伴っている。それは確かに根拠のない自信となってくれる。
仏教やその他の信仰でこのあたりをどう考えるかは、各自考えてほしい。

